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The Kyoto Playground Project

(2016)

KG+ Associate Program

主催:アンスティチュ・フランセ関西
協力:KG+、ヴィラ・九条山、京都造形芸術大学

 

藤澤かすみ、副田真由、竹浦曽爾

ヴァンサン・ロマニー

公園を見るということ

私は京都に生まれ、京都で育ってきた。

今回のプロジェクトでリサーチした公園の中の幾つかは、私が小学校・中学校時代から馴染みのある場所であり、撮影するたびにそこでの記憶が思い起こされた。幼少時代の記憶が公園の遊具や柵を通して再び立ち現れ、私は時間の経過を感じざるを得なかった。

私が公園で遊んでいた時期は厳密には幼稚園から中学卒業までで、離れた場所にある高校に進学すると同時に公園には行かなくなった。特に小学校三年から六年ぐらいまではほぼ毎日公園に通っていて、野球や木登りをして遊んでいた記憶がある。その頃はちょうど隣に駄菓子屋があって、野球がワンゲーム終わった後に買いに行ったりしていた。今はもう撤去されたが、回転式の丸いジャングルジムなどもあった。

 

公園を撮影していて驚いたのは、注意書きの看板の多さだった。私が通っていた頃とは違って、ほとんどの公園に「球技禁止」と大きく書かれた黄色い看板が立っていた。それによるとサッカーや野球は勿論、グラウンドを使って遊ぶものは殆ど禁止になっている。そこにいた子供たちは看板を無視してサッカーやキックベースをしているのだが、看板は目立つところに大きく掲げられている。私が中学生の頃にもちらほら見かけてはいたが、公園を回ってみて改めてその異常な多さに気付かされた。リサーチを通じて私は公園とはどのような場所なのか、あらためて観察しようと努めた。遊具など公園の要素をひとつひとつ撮影し、整理することで、公園そのものの姿が浮かび上がってくるのではないかと考えた。

撮影した写真を並べ見直してみると、公園における個人的な思い出から一定の距離を置き、遊具そのもののフォルムを整然としたカタログや資料のようなものとして見ることが可能になった。写真に撮ることで、その場自体の情報から被写体を引き離し、より普遍的に他者と共有することが可能になる。それを更にひとつの壁にグリッド状に配置すると、隣り合わせになった違う場所で撮影された被写体の間に共通する項目が生まれる。

 

これは写真の特性でもあるが、改めて公園を写真に収めることによって普段見ないようなところにも目線が行くことがある。例えば遊具についているたくさんの傷や、滑り台に染み付いた黄色い汚れが挙げられる。遊んでいるうちは全く気にならないような劣化した箇所がはっきりと写真には現れている。そのたくさんの傷から、遊具が持っている長い時間の流れを読み取ることができる彫刻としての一面が、写真を通してより強調して現れるようになった。

私は主観と客観を交互に行き来する体験を通して、場所というものが時間を通してどのように意味を持ち、相対的に変化していくのかということに関心を抱いた。

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